広島平和記念公園!ちょっとまじめな話。

広島に仕事で行くようになってから毎回、原爆ドーム・平和記念公園を
ぬけて仕事場に行きますが先日、急遽泊まりとなり昼に合わせ平和記念館
をはじめて見学しました。
写真は8月6日に爆発した瞬間に泊まった時計です。(実物)
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私が広島に仕事で行くようになり、母親が話をしてくれたのですが
母の兄(伯父さん)ですが広島に原爆が投下された直後に当時衛生兵として
広島市内に入ったそうです。所謂、2次被爆になります。
その後特別生活に不自由がでたとか顕著な病気の症状がなかったようなので
原爆症の認定とかはなかったようです。(当時は認定されるとある意味で差別
もあったようです。)結局、癌で60前に亡くなりました。
今となっては何も判りませんが母親は広島での影響と言っています。
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私の記憶は自転車屋をやっていて、行くとタイヤのパンクを直しているのか
車輪のところにうずくまって作業をしている無口でやせた小さい伯父さん
の姿しか覚えていません。

戦争の関係では死んだ私の父親はシベリア抑留組みです。
父親の話も死んだ時に親戚や叔父さんから色々聞きましたが戦争にからんだ
話は良いことも?悪いこともありました。気が向いたら書こうと思います。

更に、先日、亡くなった叔父さん(父の弟)も戦争の被害者です。
戦争中は予科練にいたのですが戦後殆ど入院生活となり仕事も困難で生活保護を
受ける状況となりました。
最期は植物状態でしたので安らかな死だったと思いますが病院で亡くなりました。
実はこの叔父さんの存在は私もかなり大きくなるまで知らされていませんでした。
書けないですが理由は戦争が関係していたこととだけ述べたいと思います。

亡くなった後、生活保護を受けていた関係で全て火葬まで役所が手配をしてくれました。
葬儀とかは保護を受けている人はダメ(税金を使っているから)だそうで全てを任せる
と無縁仏になるようです。
さすがにそれはできないので火葬後骨を拾ってお寺に相談し戒名をつけてもらい母と
もう一人の叔父さんと私の姉達の5人お寺で身内だけでお経をあげてもともと決めて
いた我が家のお墓に埋葬しました。
母や叔父さんはある意味で安心したようです。戦争を軸に考えると我が家の戦争との
係わりが終わった日なのかもしれません。
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平和記念館見学しながらそんなことを思い出していました。
印象的だったのは外国人の若い女の子(15才前後?)があの千羽鶴「SADAKO」
の本を売店で買っている光景でした。

と記念館を見学してちょっとまじめになった1日でした。

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この記事へのコメント

w谷
2008年09月23日 09:23
あそこへ行くと考えさせられますね。。

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